書く

 

少し前、雑記ノートを1冊に絞った。

その最後のページを書き上げたのが一昨日。

 

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別に誰にも褒められないノート1冊を使い切った! の達成感を1人密かに味わう。

 


ペラペラとページをめくりながら、5ヶ月かかって使い切ったのノートを中身を振り返る。

 


いつも同じようやことに躓いては、心を痛めたり。時に煮込んだり…。

 


誰にも言えない現在進行形の心の闇が綴られていたり。

自分を励ましたり、誰かに感謝したり、はたまた吠えたりなんかも記してある。

 


たいして進歩も発展もないのだけど、誰にも披露することのない自分だけの軌跡がそこにあった。

 


ひとつにノートを絞ってから、書くだけじゃなくルールは、なんでも“あり”にした。

子どもの手紙や作品を張りつけてみたり、旅先見つけた道の駅のスタンプを押してみたり。

 


法事で配られた家系図のコーピーを貼り付けてみたり。

感動した本を忘れないように好きな所をコピーして張りつけたり、書き残したりもした。

他には映画の半券や、どこかの入場券。その時、その瞬間の閉じ込めれるものをなるべく閉じ込めてきた。

 


1番最初のページをめくると既に描き始めの頃の自分が懐かしい。

 


変りばえの無い日常を毎日送りながら、確かに時間を経由して少し前の自分と変わってる所もあるんだろう…。

 


大きな転機や変化は、実は静かな毎日のささやかな変化の積み重ねの上に、ある日突然変わった!と気がつくものなのかもしれない。

 


その変化を振り返るために、新しい自分を見つけるために、また新しいノートを開く。

 

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読書の秋

只今、絶賛読書week! がわたしの中ではじまっている。

 

改めて本が好きだ!!

そう思える作品に出会えたときとっても幸せな気持ちなる。

 

他の作品を読んだことのある

さとうみつろう、東野圭吾窪美澄、犬飼ターボさんらの本。

 

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その中に今回、初めましての作者がお1人。

今週のラインナップに加わったのは

精神科医和田秀樹さん。

 

“なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学

表紙からしてもう既に明るい。

 

 

勝手な偏見で、精神科医の先生が書かれる本は説得力が二割増!

する気がする。

 

実際に読んで、とても勉強になった。

 

 

明るい人とそうでない人ととの差は圧倒的

な情報不足だ。

みたいなことが書かれてあって、確かに納得しか無かった。

 

わたし自身の経験を振り返ってみても然り。

知らないということが、不安や恐怖を助長させる。

時にそれは怒りをも招いて来たように思う。

 

未知なるもの。

予想のつかないもの。

終わりの見えないもの。

それらに強いストレスを感じてしまう方だ。

 

世の中には自分とは真逆で、未知なるものが大好物。冒険気質の開拓フェチみたいな人もいるけど…。

 

わたしはとても保守的な人間故、知らないということから自然とネガティブを誘発してしまうたちなのだ。

 

良からぬ考えが浮かぶ。

先暗示。

 

まさにまだ起こってもいないことに心を痛めている状態。

そんな心境の人が確かに明るいわけが無いよな…。

 


和田秀樹さんは

「やる前から答えを出さない」とも書かれている。

 

それよ!それ。ほんとに。それ。

 

今まで石橋を叩いて、叩いて、結局壊してしまうような生きをしてきたように思う。

 

 

《明るい》は生まれ持った気質、条件も無関係では無いだろうけど、この本に出会って、

それが科学だと知った今、もう既に気持ちは明るい。

 

それを証明するかのような出来事があった。

毎日のように電話で話す友達から、

「今日はえらい明るいやん」と言われた。

 


「えっ!」

わたしってば、早速明るいを科学しちゃったの!なんてびっくり!

 

単純に嬉しかった。

 

読書って不思議だなと思う。

強制でも、義務でもない。読まなくてもいいのをわざわざ探しだして、選んで、時間を割いて読むのだから。

読むはことは一見、非生産的な行為に思える時がある。じっとその場に留まり、あっという間に時間も経過してしまう。

 

だけども、その場に留まりながらにして得る知識は計り知れないのだ。人生を丸ごと変えるほどの衝撃を受けることだってある。

 

既に少なくとも、わたしは少し前のわたしより明るさを得た。

 

本には大きく愛おしい価値がある。

心の宇宙

 


先週の日曜に娘はコロナから無事に生還。

家庭内感染者を1人として出すことなく待機期間がサラサラと明けた。

 


連休1日目は家族諸元、缶づめ生活を余儀なくされ休みモードの浮かれた気分も一緒にギュッ閉じめられたかのようだった。

 


日曜の朝、娘の完治を確認後はさてどこに行こうか! 浮かれ解き放たれる我々家族。

 


そして、博物館、植物園にいったきた。

 

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これはマンモスの標本。

とにかく巨大。

 

展示の仕方が、かっこええー。

標本達が足並み揃えてザッザと音を立てて迫ってくるみたいでドキドキした。

 


最近は毎週末、博物館や美術館など文化的なとこで過ごしている。

 


次はちょっと足を伸ばして、京都のルーブル美術館展にいきたいと目論んでいるところ今日までが開催であえなく行きそびれてしまった・・。

 

 

 

今、創造的なことに興味を惹かれる。

 


誰かの内側の世界。

想像が創造になって、形となる。

それをみて感動したり、圧倒されたりしなが人間の内側の深さを思う。

 


この世に存在するアートだとか、建造物とか物語だとかが、元々はたった1人の心の世界の創造からなるものなんだ思うと、1人ずつが内包する宇宙に思いを馳せる。

 


果たして私の内なる宇宙に内包されたたま放出を待ち構えているものがあるとしたら、死ぬまでにこの目でみていたい。

 


ちなみに昨日、10歳の誕生日を迎えた次女の宇宙はいつも賑やか。

 

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毎日、数本単位でメガネを作成中。

 


君の明るい宇宙がとても好きだ。

10歳も色とりどりの明るい世界でそのまま生きて欲しい。

 

 

 

再びのコロナ

 

昨年の冬、家族全滅にまで追い込まれたコロナウィルス。

 

あんなに怯えていた生活から一転して、ノーマスク、会合、行事、いろんな催しが通常になされ始めた近頃。

かつての日常を取り戻すことで終息の線引きを自分の中でしていた様な気がする。

 


じわじわとその猛威をふるってるらしいとのニュースがどこか他人事だったのは昨日までの話。

 


長女、去年に続き人生2回目の感染が発覚。

 


昨年と大きく違うのは、5類に移行した事で家族は特に不調が見られない場合、日常生活が営めることだ。

 


他の兄弟、親は特に変わりなくそれぞれ通学、通勤を果たすことができている。

普通に買い物にだって行ける。

 


でも‥なんだか後ろめたい気持ちをずるずる引きずっている。

 


だって去年は濃厚接触者もガチガチに自宅待機を余儀なくされていたのだから。

買い物もままならず難儀した。

ネットスーパー、近所に住む知人、親にとてもお世話になった。

玄関越しの荷物の運搬はまさに命綱。

 


その記憶がまだ真新しいところに残っている今、このあまりの変わりようにどこかでわたし、濃厚接触者なんです。

だから買い物来てしまってすみません。早く退散しますので申し訳ないです感が否めない。

 


お年寄りの方とすれ違う時なるべく距離を空けて無意味だとわかっていても息をとめ、顔はなるべく下へと向ける。

職場で隣が席になる方にごめんとも思う。

 

長女は自宅待機期間があけるまで家庭内感染を死守するために、隔離部屋にてしばらく生活を送ってもらうことになる。

 


彼女と接することを許されているのは家族内で唯一わたしだけ。

 


食事の運搬や着替え、その他の体調管理にの任務を担う。

 

ドア越しのやりとりで完結するときはそうするのだけど、隔離部屋内にどうしても立ち入らなくていけないときもある。

毎日少しであるが顔を見合わせるタイミングがある。

 

もちろん長居は禁物。

 

必要最低限のやりとりになってしまうのだけど、あわよくば話を長引かせてわたしが立ち去るのを惜しむ雰囲気が伝わる。

 


隔離部屋あるある。

1人だけで過ごす時間がある一定を超えると無性に人恋しくなるのだ。

 


話したい。

 


人間の三大要求にカウントされていない欲求だけど“話す” ことは、まぁまぁ必要とする欲求なのだ。

 


顔を突き合わせて語らいた気持ちは山々だけど、なんとかここで家庭内感染をくいとめ、これ以上感染者を出さないことこそが隔離生活を最小日数にとどめることになるのだ。

 


家族1人でも家庭内隔離者がいると、普段全員がリビングに集結できる時に暑苦しいひと時が愛しい時間であったと気がつく。

 


昨年のように我が家でリレー形式に感染が続かないことを祈るのみ。

 

 

死ぬまで生きる日記

10歳から25年間もの間、死にたいを思わなかった日がなかった作者が死ぬまで生きるために書いた日記。

が、本になったもの。

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彼女の死生観にとても考えさせられた。

 


死を身近に意識するということは、裏を返せば何故、生きるのかの問いに行き着くこと。

 


心の声をそのままぴったり当てまる言葉に変えて映し出したような強い文章。

綴られた日記からは、最初はなぜそこまで死にたいと思い続けるのかがわからなかった。

 


それは当の本人が一番わからなかったことでもあるのだけど。

 


それを探るべくカウンセリングを受ける体験の記録は、自分の救いになった。

 


とても印象に残ったところがある。

 


“自立とは、依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと”

 


わたしはずっと1人でどうにかしなくてはいけないと思ってきた。

どんなに人に助けを乞うても、相談したとて、解決するの自分しかいない。ならば、その悩みを内包して、抱えて、強くなるしかない。ずっと自分と戦ってきたような気がする。ほんとの自立とは程遠いところでいつも勝手に傷ついていた。

 


抱えているのは、何への怒りなのか。何への悲しみなのか。

どこからくる寂しさなのか。正直今もわからないのたけど、その文を読んで自分を許してみようと思えた。

 


そして、彼女がカウンセリングとともにいろんな葛藤を乗り越えながら、彼女の死にたいが=書きたいだと分かったとき自分もまたその導きに何かが解けた気がした。

 


わたしはまだ、死をどこか遠いものだと漠然と信じている。

 

 

 

死ぬことに恐怖も絶望もない。

そこには実感がないから。

 


今までの人生、いっそ死を選択したくなる気持ちになったことはあった。

それでもいつも死は遠いところにあってぼんやりしていた。

やっぱり、もう少し苦悩も踏まえて生きていたい。その気持ちの方が多かった。

 


それはいいことばかりの順風満帆の人生ではなかったとしても、つまりとても幸せなことだと思う。

 


命のカウントダウンを告知されるような病気になったり、事故にあったら、途端に不安になって、いともあっけなく生にしがみつく自分に出会うだろう。

 


永遠の命がないことは承知の上で、死が訪れるその日があまりイメージできないのだ。

自分の今と結びつかない死というもの。

 


死を遠く置き去りにしながら、生きるために何をしているのかと問われたら…。

 


生きるための本能であるお腹が空いたら食べる。1日の疲れを取るために眠る。人間らしい暮らしができるように家族を持って、家をもって、仕事をもって、それらしい何かに属して生きている。

 


それが生きることなのか。

 


それも生きることだと思う。

 


その日々の中には、特別生きるとい自分の意思が存在するわけではなく、生きるための営みを自発的に繰り返しながらも、生かされている感覚の方がどごか強い。

 


では、自分の生をそれなりに全うしてからの死が訪れるその日まで、わたしはなぜ生きていたいのだろう。

 

 

 

その問に、こう答える。

 


自分を生に繋ぎ止めるための、あまりにもたくさんのものの存在に気づき。それがとても愛しいから。

自分がそれらに生かされてると思えるから。

 


それが知れたのだ。

 


今、読んでよかった。

そう強く思う。

 


明日もきっと生きる。

続けていることと、続かないこと。

家族が勢揃いし続ける夏休み。が、やっと終わり二学期もそろそろ通常運転モード。

 

ポツポツと現れる1人の時間。束の間だけど。

 

家族がそばにいると、なんとなく自分のために没頭する時間が減る。

書きたいことがあったはずだけど、気づけば何もかけずにいた。

 

読みたい本を無作為に読んではいたもののなんとなく頭に残らず‥。どこか薄い。

 

その薄さは、何ごともなく幸せ一択の日常だったからというわけでもない。

 

むしろ自分の中にまだこんなに荒ぶる感情が残っているのかと、驚くほどわりと精神的には激しい日々を過ごしていた。

 

そんな激しさを通り抜けて今は少しフラットなところにいる。

 

そうしたら、やっぱりまた本が読みたくなくって書きたくなって自分の心地よいと感じものを続けたいと思った。

 

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そして今夜、私のお腹の上には3冊の本がある。

 

 

 

君たちはどう生きるか

私の夏休みが今日で終わる。

 

「やだーー」

 

と、家族に駄々こねみても終了のカウントダウンは確実に終わりに向かっている。

 

台風で1日は缶詰になってしまったこともあり、ますます終わりを惜しむ気持ちに拍車がかかる。

 

終わりを嘆いていても明日はやってくる。

ならば、存分に今を楽しまなくては。

 

最後の日をさてどうやって楽しもうか?

子ども達と会議。   

 

私の夏休みの終わりは必然的に子どもの夏休みも終了を意味する。

 

明日から仕事の自分を励ましたいかつ、子どもたちも楽しませてあげたい。

ひたすらに留守番の日々で夏休みを消化することになるのだから。

 

協議の結果

朝からプール。

からの午後は映画で締めようということになった。

 

作品はジブリ

君たちはどう生きるか

 

事前情報の開示が全く無し。

ということはあえてネットで情報を探すことはせず何も知らない状況で見たいと思った。それがなにを意図するのかも知りたかった。

 

そして、ジブリ好きとしては最新作品を映画館で見れることがなにより贅沢な事なのだ。

この時代に生きれる幸せ。それはもう特権。

 

この作品はどうやら賛否両論あるようだが、私はたまらなく好きな作品になった。

 

ジブリの全てのスパイスが散りばめられたようなどこか懐かしい。だけど新しい。

これこそ、ジブリオブジブリ

 

震えた。

最後には映画の内容からくるものなのか、ジブリ作品にもう一度出会えた喜びなのか胸がいっぱいになって涙が滲む。 

事前情報がなぜ不要だったのか?の疑問は見たらわかるからだの一言に尽きる。

 

夏休み最後にふさわしい一日。

明日から怒涛の日々は目に見えて予想される。

 

君たちはどう生きるか

宮崎さんの心の中を覗き見したようなメッセージを胸に熱く受け止めて 

 

自問する。

どう生きるか。

 

自分の生き方を模索して、   

壮大なテーマを焚き付けられても、明日からの仕事から逃げ出したい現実にただ心は逃避の夜。

 

わたしの夏は、終わる。