再びのコロナ

 

昨年の冬、家族全滅にまで追い込まれたコロナウィルス。

 

あんなに怯えていた生活から一転して、ノーマスク、会合、行事、いろんな催しが通常になされ始めた近頃。

かつての日常を取り戻すことで終息の線引きを自分の中でしていた様な気がする。

 


じわじわとその猛威をふるってるらしいとのニュースがどこか他人事だったのは昨日までの話。

 


長女、去年に続き人生2回目の感染が発覚。

 


昨年と大きく違うのは、5類に移行した事で家族は特に不調が見られない場合、日常生活が営めることだ。

 


他の兄弟、親は特に変わりなくそれぞれ通学、通勤を果たすことができている。

普通に買い物にだって行ける。

 


でも‥なんだか後ろめたい気持ちをずるずる引きずっている。

 


だって去年は濃厚接触者もガチガチに自宅待機を余儀なくされていたのだから。

買い物もままならず難儀した。

ネットスーパー、近所に住む知人、親にとてもお世話になった。

玄関越しの荷物の運搬はまさに命綱。

 


その記憶がまだ真新しいところに残っている今、このあまりの変わりようにどこかでわたし、濃厚接触者なんです。

だから買い物来てしまってすみません。早く退散しますので申し訳ないです感が否めない。

 


お年寄りの方とすれ違う時なるべく距離を空けて無意味だとわかっていても息をとめ、顔はなるべく下へと向ける。

職場で隣が席になる方にごめんとも思う。

 

長女は自宅待機期間があけるまで家庭内感染を死守するために、隔離部屋にてしばらく生活を送ってもらうことになる。

 


彼女と接することを許されているのは家族内で唯一わたしだけ。

 


食事の運搬や着替え、その他の体調管理にの任務を担う。

 

ドア越しのやりとりで完結するときはそうするのだけど、隔離部屋内にどうしても立ち入らなくていけないときもある。

毎日少しであるが顔を見合わせるタイミングがある。

 

もちろん長居は禁物。

 

必要最低限のやりとりになってしまうのだけど、あわよくば話を長引かせてわたしが立ち去るのを惜しむ雰囲気が伝わる。

 


隔離部屋あるある。

1人だけで過ごす時間がある一定を超えると無性に人恋しくなるのだ。

 


話したい。

 


人間の三大要求にカウントされていない欲求だけど“話す” ことは、まぁまぁ必要とする欲求なのだ。

 


顔を突き合わせて語らいた気持ちは山々だけど、なんとかここで家庭内感染をくいとめ、これ以上感染者を出さないことこそが隔離生活を最小日数にとどめることになるのだ。

 


家族1人でも家庭内隔離者がいると、普段全員がリビングに集結できる時に暑苦しいひと時が愛しい時間であったと気がつく。

 


昨年のように我が家でリレー形式に感染が続かないことを祈るのみ。