死ぬまで生きる日記
10歳から25年間もの間、死にたいを思わなかった日がなかった作者が死ぬまで生きるために書いた日記。
が、本になったもの。
彼女の死生観にとても考えさせられた。
死を身近に意識するということは、裏を返せば何故、生きるのかの問いに行き着くこと。
心の声をそのままぴったり当てまる言葉に変えて映し出したような強い文章。
綴られた日記からは、最初はなぜそこまで死にたいと思い続けるのかがわからなかった。
それは当の本人が一番わからなかったことでもあるのだけど。
それを探るべくカウンセリングを受ける体験の記録は、自分の救いになった。
とても印象に残ったところがある。
“自立とは、依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと”
わたしはずっと1人でどうにかしなくてはいけないと思ってきた。
どんなに人に助けを乞うても、相談したとて、解決するの自分しかいない。ならば、その悩みを内包して、抱えて、強くなるしかない。ずっと自分と戦ってきたような気がする。ほんとの自立とは程遠いところでいつも勝手に傷ついていた。
抱えているのは、何への怒りなのか。何への悲しみなのか。
どこからくる寂しさなのか。正直今もわからないのたけど、その文を読んで自分を許してみようと思えた。
そして、彼女がカウンセリングとともにいろんな葛藤を乗り越えながら、彼女の死にたいが=書きたいだと分かったとき自分もまたその導きに何かが解けた気がした。
わたしはまだ、死をどこか遠いものだと漠然と信じている。
死ぬことに恐怖も絶望もない。
そこには実感がないから。
今までの人生、いっそ死を選択したくなる気持ちになったことはあった。
それでもいつも死は遠いところにあってぼんやりしていた。
やっぱり、もう少し苦悩も踏まえて生きていたい。その気持ちの方が多かった。
それはいいことばかりの順風満帆の人生ではなかったとしても、つまりとても幸せなことだと思う。
命のカウントダウンを告知されるような病気になったり、事故にあったら、途端に不安になって、いともあっけなく生にしがみつく自分に出会うだろう。
永遠の命がないことは承知の上で、死が訪れるその日があまりイメージできないのだ。
自分の今と結びつかない死というもの。
死を遠く置き去りにしながら、生きるために何をしているのかと問われたら…。
生きるための本能であるお腹が空いたら食べる。1日の疲れを取るために眠る。人間らしい暮らしができるように家族を持って、家をもって、仕事をもって、それらしい何かに属して生きている。
それが生きることなのか。
それも生きることだと思う。
その日々の中には、特別生きるとい自分の意思が存在するわけではなく、生きるための営みを自発的に繰り返しながらも、生かされている感覚の方がどごか強い。
では、自分の生をそれなりに全うしてからの死が訪れるその日まで、わたしはなぜ生きていたいのだろう。
その問に、こう答える。
自分を生に繋ぎ止めるための、あまりにもたくさんのものの存在に気づき。それがとても愛しいから。
自分がそれらに生かされてると思えるから。
それが知れたのだ。
今、読んでよかった。
そう強く思う。
明日もきっと生きる。