足りないものはない

無いもの思うとほんとに無くて
有るを感じると満たされていることに気がつく。

 

この2日でわたしの手に入ったもの達。

・ピンクの鮮やかなマフラー
・湯沸かしケトル
・ファーの湯たんぽ
・ガラスの急須
・充電式ホットビューラー
・リファーのドライヤー

この冬に活躍してくれそうなものばかり。

 

少し引っ込み思案気味の2023年今年の冬。わたしの暮らす大阪では、冬はまだどこかに隠れているみたい。

 

大阪だけでなく、例年に比べるとゆっくり冬を迎えよとしている日本でまだ夏を生きている身内がいる。

沖縄在中の年子の兄。絶賛単身赴任中。
その兄は昨日、誕生日だった。
lineでおめでとう~を伝える。

 

そこからそれぞれの近況のやりとりを3往復して、判明したのが沖縄はまだ夏だということ。
「基本的に毎日半袖半パンスタイルやで」
大阪もまだわりと温かい11月だけどそこまで夏とは! それを知ると終わったばかりの暑苦しい夏がもう既に恋しくなった。

 

ちなみに夏を生きてるのが兄だけなのか?それが沖縄基準なのかが気になるところ。
4回目の私からのlineへのその質問にはノーコメントで、今日のいでたちの写真だけが一通届いた。

 

ショッキングピンクのビーチサンダルに、黒字にイチゴがらのショートパンツ、まぶしいぐらい黄色のTシャツ。夏を超えてきた!

そんな常夏トロピカルな兄は、昨日43歳になった。
きっと沖縄基準より少し長めに夏を堪能しているのだろう。

「お~めっちゃ夏やん!」
「てか、イチゴって」

 

5回目の私からのイチゴへの突っ込みのlineを最後にやり取りがそこで終了。

 

兄が沖縄で仕事することになって2年が経過した。
話せば長くなるので割愛するが、兄は沖縄のクウォーターである。もちろん妹なのでわたしも同じくそうである。 

縁あって沖縄で仕事する運びになり。我が一族を代表して、兄が沖縄で展開する事業を担うことになった。

 

行くとなれば大阪に家族を残し単身赴任になってしまう兄が自ら沖縄行きを志願することに誰もが驚いた。
社内では当初、独身社員に白羽の矢がたっていた。
そこを家族、親をときふせて兄が行きたいのだと主張した。 

 

本来、兄は自分から主張したり、志願したり性格ではない。
兄を連想させるワードを一つ紹介するならば
”マイルド”が一番しっくりくると思う。


いや思っていた。
正確には、兄の結婚式までは…。

兄自らがマイルドこえるワードを叩き出してきたのだ。

 

兄の結婚披露宴時に司会者から、自分を一言で表すとなんでしょうか?の問いかけのシーンがあった。

おそらくだいたいの大人はそんな時
真面目とか、ポジティブだとか言うんじゃないかと思う。

皆が見守る中、数分が経過。
しばらくの沈黙ののち、兄はこう答えた。

 

「フワフワ」

 

恐らく場の時間を繋ぐための司会者のアドリブ的質問であったと思われる。 


兄もまさか披露宴でそんなクエスチョンがぶっこまれると思っていなかっただろう。

マイルドを遥かに超えて、兄にぴったりのワードが自らによって誕生した瞬間だった。

 

フワフワって。恥ずかしくて普通の人らなよういわんわ。
自分のことて天然なんで~とか言うよりはずい。

でも間違いなく兄は自他共にだれもが認めるフワフワで間違いないぐらいフワフワしちゃってる人なのだ。


申し分ないフワフワ。全世界公認フワフワ。

そのフワフワが固い意志をもってしてそう志願するならと最後はみなんで応援する形になり、兄に沖縄の事業を託すことへとなった。 

 

誰もがフワフワのいや、兄の行く末を心中では心配していた。


が、フワフワは皆の心配をよそにみずをえた魚の如く、沖縄の水や空気、人間関係、食、風土すべてを見事に自分にマッチングしてのけたのだ。

 

人相が変わるぐらい見違え、この2年間き生きと働いている。業績もまずまずだそう。
もうかつでほどあんまりフワフワしていない。

自分のルーツだからなのか、遺伝子レベルで本能で沖縄を求めていたのかもしれない。 

 

ちなにこの記事を読んでくださってる方でいつか沖縄にいく機会のある方は
ぜひ、お立ち寄りいただけたらと思います。

古宇利島の町の駅
ソラハシに

そこでスカイのキャップを年中被った、ちょっとフワフワな兄があなたを出迎えてくれることでしょう。

で、今日は何を書きたかったかというと、


自分の欲しかった物理的なものが手に入るとやっぱり単純に嬉しい。
現にわたしはすごくうれしかった。

それを手にいれるために仕事を頑張ろうと思えたりもする。
そのモチベーションが活力や自信にもつながってきた。 

 

でもそれを追い求めすぎて、人の持ち物と、自分の持ち物とを比べて枯渇感を抱くときが人は一番不幸なんじゃないかなと思う。

 

ほんとに足りないものは実はそんなになくて、
自分の好きな場所で、好きをことを好きな人と好きに生きる。


そうしたら兄みたいにフワフワしたものだって変わっちゃうんだよなー。

 

今”ある”そんな中で生きてる自分に気づけたら、沢山のものはいらにのかもしれない。

目の前にある手に入れたお品物をみて、うれしいとの矛盾を感じながら、今日もあるとないの間をわたしは生きている。

 

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好きなことだけをする生き方

 今日は、自分の気持ちを優先してみた。それも最を頭にもってきた優先オブ優先の”最優先”を。

今、自分が一番心地いいことする。自分勝手な日。

 

子ども3人+夫在宅。さらには徒歩5分圏内のお舅さんが1週間ぶりの退院の日というしがらみの多い日に強行に及ぶ身勝手ぶり。

 

一応の言い訳を…洗濯、炊事、掃除、一通りの家事はすべてコンプリートした上での話。
なので厳密に言うとできる範囲内でのせめてもの自分勝手なのかもしれない。

 

心の求めるものに正直になればいい。
とか、自己啓発系の本なんかを読んでいたらよく目にするワード。

”本当に自分が好きなことをしたらいい”

 

悲しきかな、昭和のど真ん中の教育を受けて、生き抜いてきた41歳には
ほんとうに好きなこと”だけ”をする生き方がとてつもなくフワフワとした生き方に感じる。
輪郭のぼんやりした境目のない模様みたいなものなのだ。

 

目指していいような、悪いような…。
むしろ罪悪感すら感じる。

そんな気持ちになる自分のまじめさを呪う。

 

それでも呪いつつも、枠の中の最大限の自由を選択してみた。今日の夕方、主人3兄弟と各配偶者とそれぞれのこども達を含む全員がお舅さんの退院日に義実家に集結する日だったのだが、唯一身内の中でわたしだけ駆けつけなかった。


今までの自分にはあるまじき行為。そういう体裁だとか嫁ヒラルキーには敏感で臆病者なので、本来は自分の気持ちなんてものの価値はひょいっと簡単に放り投げれる人間なのだ。

 

だが、今日のわたしは違う。

本心が行きたくないと自分に告げている。ここ1年ほど抱えているある悩みがある。それを内包したままそれを悟れないように明るくやる気・元気・いわきみたいな嫁を演ずることにほとほと疲れてしまった。まるで糸が切れてしまったみたいに…。

 

なので心の中でお舅さんの退院おめでとうござます告げた後は、今日だけは嫁でも母でも妻でもない一人の人間に戻らせてもらうことにした。

 

約3時間ほどの自分のためだけに使う時間。

わたしは映画を見ることにした。


”花束みたいな恋をした”をアマプラの最初の方に出てきたという理由だけで、直観的に1、2分で選んだ。

 

まあ~びっくり。
恋愛ものではあるということは知っていたのだけど、今日の自分の選択に意味を持たせてくれるような映画だった。

 

自分の好きを大切にする生き方。
自分の好きな人と一緒にいたいから、好きなことを放棄する生き方。

 

本当の自分を最優先することより、それを一番遠回しにして生きてきたようなわたしからみたら、後者の生き方はかっこよく見えてしまうのだ。

 

お互いが好きでありながらも、いつしか大切にしたいものの価値観が大きくずれていくリアルな描写に心が痛んだ。

 

心の真ん中に置いておきたいものが違うものなり替わったとき待っているのは別れなのだということがしみていく。

 

エンドロールを見ながらそんなことを考えていたとき、ガヤガヤと家族が帰ってきた。


その瞬間、わたしはまた母に戻り、妻へと戻る。

 

好きだけや心地よさを心の真ん中に置いて生きるのはわがままなことなのだろうか

方舟

「まさか…。」

 

そんな結末が待っていようとは予想だにしなかった。

 

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方舟/夕木春央 著

 

読み終えたあと、恐ろしくて…
なかなか寝付けなかった。 

 

夜中まで読んでしまったゆえ、この時点で睡眠時間は残すところ4時間。 

 

明日の自分の為に一刻も早くこの上ない深い眠りにつかなくてはいけないのに…。
寝れん。

 

怖い。あまりにも怖いラストと夜中の暗さが相まって、更に怖さに拍車がかかる。 

 

思わず部屋のスタンド灯りを少し強めに朝光し、主人が寝てるのもお構い無しにつける。

 

そうすることで一旦暗闇から脱出を試みる。少しでも今の恐怖から距離を置きたくてたまらなかったのだ。

が、明るくした所で余計に寝れん。

 

横でグースカ寝てるところ、ほんまに悪いねんけど

主人をゆり起こす。


「あんな…。怖くて寝れんわ。」


眠気眼にも関わらず一生懸命ストーリーを聞いてくれる。


あまりにも恐ろしいその顛末までを一通り披露し終える。すると少し気持ちが落ち着いた。


恐怖を共有してくれる人がいると少しそのかさが減るのだろうか。


部屋を再び暗闇にしても、今ならようやく寝れる気がする。

いや、寝なくてないかん。
明日も容赦のない諸々が仁王大立ちして待ち構えている。

散々付き合わせたあとはいつのまにか主人の就寝を確認することも無く寝ていた。


翌日の朝はとてつもなく起きにくかった。早く寝なかったことを後悔しつつ、恐怖とは何かを思った。

 

恐怖から殺人。
恐怖からの理不尽。
恐怖は自分勝手。

才能

 

“血が、汗が、涙が、デザインできるか。”

 


いや、できない…。

だから心が動かされる。


とにかくカッコイイの代表の様な生き様。存在自体がアート。

 

今日の本は石岡瑛子さんのこちら、

 

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創造することについてを考える度、いつも感動と共に嫉妬めいた敗北の様なものが心の中を走る。

 

何かを成し得る人には、才能があるのだ。とずっと思っていた。

 

それは神から与えられたものであり、特別な人だけが手にする産物のようなものだと思っていた。

 

だからこう感じる。才能というやつが眩しく、疎ましいと。

 

先日その考えが大きく変わる出来事があった。

才能について記されているとある文を目にしたのだ。

 

それは才能があるからの一言で成功者を自分とは違う恵まれた人と片付けのはとても傲慢である。といった内容だった。

 

そして才能という意味を改めて調べてみると、


・ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。

 

・才知と能力。 ある個人の一定の素質、または訓練によって得られた能力。

 

がでてききた。

 

才能とは生まれ持ったそれだけではなく、訓練によってなしとげる力だったのか。

 

才能って努力の範疇では及ばないどうにもならないものだと捉えていた。

たがらずっとそれが欲しくて眩しいくて、疎ましかったのだ。

 

ただ羨望の眼差しで訓練も力も蓄えないそこに自分も人も震わす創造は生まれない。

 

いつも圧巻のアートに出会うと心が激しく揺さぶられるのは、光と同じたけの影を知らず知らずのうちに体感とした得ていたからなのだろうか。

 

血が、汗が、涙が、デザインできるかの石岡さんのメーッセージには、血と汗と涙を流してきてから誕生したアートがあるということを説いてるように感じた。

 


芸術の秋に間違いなく相応しい1冊。

 

 

時として悲劇

 

 

相手が望むことを自分が拒絶するとき。その間に悲劇が起こる。

 


家族をしているとその時はたまに訪れてしまう。

 


いや……訪れない家族もいるかも知れないけど、我が家には定期検診みたいに時々訪れてしまう。

 


そして、それは今朝 訪れてしまった。

 


一旦悲劇か間に入ってしまうと、思ってもいないことを口にしてしまったり、折り合いを付けた過去まで引っ張り出してしまう。

冷たい血が流れ始め心にでまでその温度が沁みこむ。そして悲しい時間を経験することになる。

 


その後の後悔。

いかん。

 


軌道修正せねばいかん。

 


それを要するには、一旦別のことをしてみる。とりあえず自然の中に身を置いてみる。そして、書き出してみる。が最近のわたしの処世術。

 


そして行うこと1時間半。見事にクリア。

そして勝利。

 


心の平安を呼び戻したところで今これを書いている。

どこぞの公園の大きな木の下で。

 


いつも思う。

 


予想外の要望やかまえてない突然のパスもキャッチできる度量がありゃーなーとほんとに思う。

 


ジーニーやシェンロンみたいに何でも叶えてあげれる自分がいたらいいのにな。

 


目の前にその2人(2匹?2頭?)のうちのどちらかが現れてくれたならば私は願う。

あなた方みたいに人のを望みを叶えれる側の人間にさせてくださいと。

 


そして、時として悲劇が起こらない喜劇の中で家族をしていたい。

 


見上げた雲が龍みたいだったから、今回のお願いごとは、ジーニーなくシェンロンにお願いしすることにしよう。

 


是非に!お願い申し上げます。雲にそっとそう願いを伝える。

 


あっでも7個のドラゴンボール未回収だったわ。

 


そこから探さなくちゃあかんのか。

願いを叶えて貰うのも、叶えるのもだてじゃないのね。

 

じゃあせめて、悲劇の先に喜劇があるとことを望むぐらいはいいよね。

シェンロン?

700万の右手


「選ばれたでー」

 

帰宅するなり、息子がヌッと廊下から一枚の紙を引っさげて登場。

 

わたしは何に選ばれたのさっぱりわからなかった。

 

仕事後、買い物に出ようと思ったら窓から夕立を確認。

途端に本当は買い物に超絶行きたくなくて、ウダウダしていたという本音に気がつき1回 これは神の足止めだ! なんて都合のいい解釈をしながら布団に丸まっていたときにそれを聞いた。

 


選ばれたの言葉に、瞬間なんか凄ーく怠けてる母に見られてはいけないと謎のプライドが発動して

あたかも寝てませんでしたよーのテンションでサッと今寝てたのを悟らせいよにベットに腰掛け

 


「えっ何に?」と聞き返した。

 


聞くと何やら夏休みに書いた

国際なんちゃら絵画コンクール的な平和ポスターの絵が学校代表に選ばれたのだ。

 


「すごいやん」

普段は適当な母親でも子どもの功績はやっぱり嬉しい。

 


そして、何がすごいってその先の展開に夢があるのだ。

学校→地方→全国→世界へとその審査が続いていくらしいのだ。

 


最後の1人に選ばれた暁には、世界一の称号とともに、ハワイだかフランスでの表彰式に家族2名までご招待! そして、なんとおおよそ700万が送られることになっている。

 

ネットで早速、過去の世界一に選ばれた歴代の作品を見てみようと家族みんなの目線がiPhoneへと集中する。

 


見なきゃよかったか……。

そっと画面を一回閉じたくなるほど圧巻のアートがそこに並ぶ。

 


世界!おーー!

なんて浮かれた心の温度が一気に➖10度ぐらい下がる感じがした。

 


まじで子どもが描いた?のかと…。

芸術に長けてる親だか、親族だかの手によって加筆修正がされたのではないか? 邪な疑いを抱いてしまうほどあまりにも芸術的レベルが高すぎた。

 


世界一の覇者たちの絵がエベレストとしたら、うちの子の絵は六甲山じゃね?ぐらいに感じるほどだ。

 


それでもアホみたいに夢を見るのは我々の自由だ。

早速、協議がなされる。

 


誰が家族の引率者として、フランスまで(開催国はきまってないけど

行きたいからという理由てま勝手にフランスになっている)

いくか?

そこはほら、やっぱり母でしょーよ。そういう時は母親が1番しっくりくるやん。

つかさず長女がいや、ここは兄弟だけで海外にいく経験を今から積んでおく方がいいと思う。なんてプレゼンが始まる。ママは忙しいくて仕事も休めないやろ?妹の世話もあるし中々家あけれないんちゃう?ときた。

母親負けじと子どもはクレジットカードもってないからあかんやろ。大人の経済的パワーを武器に自分が適任であることを推す。結局誰が付き添うか曖昧なまま、

その後は賞金の使い道などについてへと協議がまだまだ続く。

 

700万何に使おう?

内訳どうしょっか?

絵のコンセプトを聞かれたら何と答えよう。

作品の名前なかったくない?

何か決めといた方が箔が付くんちゃう?

 


夢は広がる。どこまでも……

 


デジタルの技がどこかしら匂うエベレスト級のあまりにも完成の高い絵にビビりつつ、親バカだけど右腕1つアナログの手書きで描きあげた荒削りな息子の絵が私は好きだと思った。

 


息子はいつもいつも絵を描いている。

夕飯の後、いつも1人そこかしらで背中を丸めて妖怪みたいにして描いている。

 


そこまで毎日書くものがあるのかねーと呆れるほど描いている。

 


彼が書き溜めてきた絵がもしかしたら初期の作品として立派なアートとして日の目をあびるかもしれない。なんて話にまで派生する欲深い我が家のメンツ。

ついには700万の右腕が描いた絵だからねー、この前祖父の誕生日に送ったほらあの絵も価値があるわ!と盛り上がりは止まない。

 


妄想でごちゃごちゃ言ってる時間もまた見えない賞を授与したんだと思える楽しい夜だった。

 


それに今日のできごとが、自信が、彼の小さいな胸に止まって生きる希望になればそれは何によりも価値のある称号なのだ。

 


褒められたり、認められたりする経験があるとないとではこの先の生きやすさが随分と違ってくると思う。


人生のどこかで打ちのめされたとき土壇場でその経験がギリギリでものをいう時がくるさ!

 

 

夜空に浮かぶ欠けた月たち


ただ、普通に生きる。

普通から離脱してる時、感じるのはその難しさ。

 

そもそも、普通ってなんだ……。

 

精神科医井上智介先生が監修したという窪美澄さんのこちらの本。

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数日の私の夜のお供。

 

一気に読破! ではなく、毎夜1話ずつゆっくりと読み進めるたくなるような本だった。

現に本をめくる手をあえて休めながら読んでいた。

 


いつかは、今とはまた違うかつてのような日常が戻ってくるよ。

という静かな希望を示唆してくれる本だった。

 

その希望があるか、ないか。

 

かわり映えのない日々の暮らしの中で、その少し先に光がホワッと灯るのが見えて、おいでと待ってくれていることがわかったのなら。

それが、どれほどの救いになるか。

 

少なくても、今のわたしにはとても必要な安心材料になり得るのだ。

希望というものが。

 

まるで普通だとおもっていたあの頃の日々がまた戻ってくるのか……。

 

いつか……。きっと。

 

繰り返えされる淡い期待とともに、何かを経由した後のそれは、かつてのそれとは全く同じものでは無いのだろうということを本当は知っている。

 

同じようなものかもしれないけど、それはきっと違う何かになりかわっている。

 


それでいい。

その上でもう一度、普通というあたり前にどっぷり浸かりたい。

 

いつか劇的に事態が好転するのだろか。

変化というのもが、

とても小さく分かりづらいものだから時々、確かめてみたくなる。

 

誰かに大丈夫だと言って欲しくなる。

 

裏が透けてみえるような薄紙を重ねるような変化でもいい。

そのあまりにも薄い紙をそっと飛んでいかないように重ねるという行いをわたしは繰り返せているのだろうか。

 

たとえ5ミリでも、1センチでも目に見えて厚みが増しているのを知れたのなら、大丈夫。

 

そう思えるような気がする。