今夜の本
“女という生きもの”
今まで読んだミリさんの本の中で一番生々しい感じがした。
ミリさんが感じてきた“女”がその私見と共につらつらと綴られている。
ときに頷き、ときに恥ずかしくるような…あまりにも正直な女たるものの暴露に、
まぎれもなく自分が“女という生きもの”なんだと思い知る。
書かれているどれもが一度は考えたこたあるよなーみたいなことで、来世はまた女がいいか?
次は男がいいか?って、男で生きたことないから交互に後3回どちらの性も体験してから改めてジャッジしたいなとか。
そうなるとまだあと何回も来世生きないあかんの?とか思わずフフフ…。たかだかどちらの性か決めるのにその道のりの長さに途方もなくなる。
可愛いおばあちゃんになりたいってそういえば一度は言った記憶たしかにあるけど、いつから言わなくなるんどろうとか。
孫がいなくても歳がいけばその風体は紛れもなくおばあちゃんになる日がきて、何かのおりにはじめて「そこのおばあちゃん」なんで呼ばれたらやっぱり少しショックなのかな…とか。
そういえばいつから平気で自分のこと娘の友達の前で「おばあちゃんに貸してみー」とか言えるようになったんだろうね。
女である自分の性が当たり前にそこにあったので女という生きもの貫いてきた。
その途中で妻になり、そして母になった。そして自らをときにおばあちゃん呼ばわりできるぐらいおばちゃんになっている。
きっとこのまま平均寿命を全うするならば、おばあちゃんしてる日が来るかもしれない。
何かにならなくては幸せになれない時代ではない。結婚や子どもを持つことだけが女の生き方ではないことも理解している。
今回たまたまそんな巡り合わせにそうなる機会をいただけに過ぎない。そこにはやはり深い感動と感謝があるのは事実。
ただ、結婚や子どもを持たないもう一つの“if” の人生を見てないからそちらバージョンがどんなものかはわからないけど、人間として生きていたら女に限らず幸せだと思える時間はどんな人にも訪れるものだと思う。それは主観だから。
世に名を馳せるような自分にしかできない大きな仕事や重要な何かを担っていてたら、それはとても素晴らしいこと。
たとえ大きな何かを成し得なくても一人の大人しとして自立して自活していきることステキなこと。それができるには当たり前にあるいくつかのハードルをノールックで飛び越えてきているのだから。
健康でそれなりに動ける体。世間の一員として働ける最低限の知恵と知識。また人の間で過ごせる人間らしい感情や心。
それらがどれか一つでも欠けると幸や不幸に関わらず結構生きにくいもの。
当たり前が当たり前でないことを知ってる人は強い。
今回は大きく世間的に貢献や功績は残せはしないけど、誰かの妻になり、母になり自分単体以外の何かに属して、いつくものそれらしい仮面を持っていて、そつなく誰かの何かをやりこなしてる。
いろんな仮面を全て剥いだどきそこにいるのは“女という生きもの”。