希望が死んだ夜に

今夜の本

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“切なすぎるラストに誰も耐えれない”

 

14歳の少女ネガは経済力も生活力もない母親とボロアパートで二人暮らし。まわりにたよれる大人がいないネガだったがある時運命的な出会いをした…。

天祢 涼『希望が死んだ夜に』(文藝春秋、2017年) 帯より

 

我が娘と同じ年齢。

14歳。

 

この年頃だったときの私ときたら、自分のことを考えるだけでいいんだよ。そうすることを周りに許されていたような過ごし方をしてきた。

 

与えらることは特別ではなく、当たり前。

当たり前の全ての中に、生かされて満たされてきた。

家で食事が当たり前にでてくる。

お風呂はいつだって入りたければはいったらいい。

毎朝お弁当は既にできあがっていて、

修学旅行には新しい下着や服を揃えてくれた。

説目にはお祝いしてもらい

クリスマスにはサンタも来てくれいた。

お正月にはお年玉を貰い。

塾に行きたいと望まなくても、塾に行く手筈が既に整っていた。

クラブで新しい用品がいるとなれば当然のように買い与えもらえた。

進学したい学校が私学だろうか、躊躇なく行かせてくれた。

 

まるで親は子どものためには当たり前にすることはこれでしょうのカテゴリーにそれらを勝手に放り込んでいた。

 

当然、自分にはそれを受ける義務があるかの如く…

与えらない人生が、あるなんて知りもしなかった。

 

犠牲を払わずしても受け取れることが、どれほど庇護されていたことだったか、どれほど尊いことなのか。

きっと絶対あっただろう苦労を微塵も見せず365日同じテンションで親をしてきてくれた両親。

 

親になった今ならよくわかる。

そして、この本を読んであとなら、もっとよくわかる。

 

自分の無頓着さに失望し、自分の幸せの背景にある親のおかげに感謝がこぼれる。

 

そのどれも与えらないのがこの本の主人公のネガ。

そのどれもをかつては与えらてきたネガの親友のぞみ。

 

もともと無かった、それしか知らないなら、そこに留まることが出来る。

 

もともとあったものが無くなった時その喪失感たるや命にも匹敵する重みがある。

 

希望のないネガは生き延びた。

希望が消えたのぞみは死んだ。

 

希望がもともとそこになかったとしたら、消えなかった。

そうしたら、のぞみは生きていれたのか…希望なんか持たなかったら。

 

14歳の女の子が背負う運命にしては過酷すぎる。

じゃ誰を呪うのだ。

親が悪い?

じゃその親が同じように育てらた背景があったとした、今度はその親の親を呪うのか?

連面とつづく負の連鎖の背景を呪いつつけばいいのか?

 

生活費を稼ぐ。親を生かす。自分の希望のために頑張る時間が物理的にないのだ。

 

深夜の労働のあとの学校での絶望。

のぞみ以外は、誰も自分がそこに居ることを認めてくれない。

淡い恋心をい抱く相手からの破壊的な言葉の暴言。

 

希望が死んだら、人も死ぬのだ。

 

全世界の14歳が豊かな幸せな暮らしとはいかなぬとも、どんな環境下にあろうとも1度見出した希望を守ってあげれる。

希望ぐらいもってもいいんだ。そんな世界に社会になったらいいのに。

 

14歳は子どもと大人の狭間の一時。

 

せめてそのつかの間ぐらい自分に心を砕く贅沢をと望む。

 

娘をもつ私には切なすぎた。